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第59回 祭典の日 2016年8月

『二〇一六年、リオ・オリンピック』

執筆時点現在で絶賛開催中のスポーツの祭典「リオデジャネイロ・オリンピック」"2016 Summer Olympics in Rio de Janeiro, Rio 2016" をライブ中継や録画にて放送されている各種の競技を欠かさず視聴しているために寝不足の方も多いのであろうと思われますが、筆者もその一人です。

この寝不足を引き起こす要因の一つとして、北半球の極東に位置する島国から遥か彼方の南米の地リオデジャネイロに赴いた甲斐が報われて金脈を探し当てゴールドラッシュで一攫千金(いっかくせんきん)を貪欲なまでに目論むかの如く、活性化した選手たちの勢いを観たいのです。お目当ての「金」だけに留まらず「銀」や「銅」といった金属類の鉱脈までも掘り当てたメダルラッシュに一喜一憂して沸き立つその様子、栄枯盛衰が凝縮されたその歓喜のシーンを共有するためオンタイムで視聴したいのです。

ですが筆者が観たいと乞うのは、金銀パールプレゼントされる(メダルが授与される)栄誉に纏われた華やかなシーンだけではなくて、寧ろその周囲で思いがけずに起こる様々なハプニングであり、そうした意図的な演出を完全に排除した故の偶発的に刹那で産み出されるドラマを見たいのです。あわよくば、その物語に至る伏線のシーンを辿り歩いて後、まさにその瞬間を目撃したい、偶然と刹那の目撃者であり証人の一人になりたいのです。

遠く離れた地球の裏側にある南米の現地に行く甲斐性もなく遠隔映像となるテレビ放送を介しての視聴ではあるものの、他ならぬ自身の眼で確認したいという衝動的な欲求に駆られるのです。今この瞬間にリアルタイムで展開し共有される物語を見逃したくないのです。

リオでの祭典は会期も終わりに近づいていてもうすぐ寝不足も解消されるとは思うのですが、来月(2016年9月8日)からは「リオデジャネイロ・パラリンピック」"Rio 2016 Paralympic Games" も待ち遠しい限りですので、超人達の宴が開催されればまた寝不足に陥ることになるかもしれません。

『二〇二〇年、東京オリンピック』

況してやこの「祭典の日」が近く東京にて開催されるのだということが念頭にあってなのか、このリオでの祭典が次第に予習の様に感じてくるのです。それは今回開催地のリオから次回開催予定の東京へとバトンが渡されることにもなるのです。二〇二〇年予定である現在から四年後は身近に感じることが出来る近未来ですし、筆者も否が上にも過剰なまでに期待を膨らませてしまいます。

二〇二〇年東京オリンピックは招致が成功したので期待が高まったのですが、その開催への準備を始めると途端に「エンブレム」、「新国立競技場」、「建設費用負担」果てには「東京都知事の交代」にまで至り、何らニュースには事欠かないので二〇二〇年までマスコミはニュースネタには困らなくて済みそうです。これも恩恵なのでしょう。

ニュースネタの創作活動も大事だとは思いますが、祭典の日を迎えるに向けて適切に準備も進める必要がありましょう。何事も準備の段階で成否は決まるからですし、わざわざ手を上げて五輪招致を願いましてそれが叶って開催するのですから迎える「おもてなし」は事前に無理ないスケジュールで準備できており、直前の変更があったとしても臨機応変に対応できるような余裕も欲しいところではと憶測します。
そして何よりも開催することの意義であり一番大事なことは選手たちが参加して良かった、関係者、ボランティア、スタッフ達がこの催しに係わることが出来て幸せだ、と思える祭典に是非して貰いたいものです。それを世界中で観戦するという多くの方々にもその感情が伝わってくることでしょう。
筆者は東京五輪を観戦できる、二〇二〇年に存在できている、それだけで幸せです。

何せ昭和三十九年に開催された前回の「東京五輪」の翌年に誕生した筆者としましては、生きている間に観ることが出来る最初で最後に直に視認可能な「東京オリンピック」"2020 Summer Olympics in Tokyo, Tokyo 2020" になることは間違いないのです。その次があるとしても五十年以上先になるのでしょう。自然の摂理としてその時に筆者は「非物質化」" Dematerialization" している筈に違いないのです。
ですから、二〇二〇年に開催される「東京オリンピック」へ高まる期待は筆者にとっては前回を見逃したことへの執着と昭和へのノスタルジー(懐古と追憶)に過ぎないのかなとも想っています。

東京五輪に出場をされる選手の方々に願うことは国威発揚としてではなく、代表という責任感の全てを一人で背負い込むのではなく、自分のためにその場に立って欲しいという事、自らが課した日々を辛い練習を経たことで蓄えた実力を思いっきり祭典の日で発揮して欲しい事、それだけです。少し我々にも魅せて(見させて)下さいと願います。

『一九六四年、東京五輪』

前回の東京五輪には筆者はまだこの世に生を受けておりませんので過去の断片的なニュース映像や記録映画や書籍などで知り得るのみですが、東京五輪では当時の日本が高度成長期に差し掛かり「もはや戦後ではない」と数年前に宣言したことで復興を果たした日本を強く国内と海外にアピールする意図も手伝って華々しい場面が演出、展開されて観客が歓喜に沸いたことを伝え聞いています。

その中でも大松博文監督率いる「東洋の魔女」と名付けられた女子バレーボールチームの活躍は日本中を歓喜の渦で席巻したそうです。

当時、圧倒的な強さ誇示していた彼女達が引退を延長して五輪に参加し、あまつさえ金メダルをもぎ取り賛辞を浴びた当の魔女(選手)達は勿論ですが、大松監督にもスポットライトが当たりました。これは「大松博文」(Hirobumi Daimatsu) 彼自身が悲惨な戦地からの復員兵であり、それはインド北東部へと侵攻した杜撰(ずさん)な「インパール作戦(ウ号作戦)」に従軍し「白骨街道」という地獄から死線を生き延びた数少ない生還者という経歴、そこでの体験が嫌という程に体躯に摺り込まれ彼自身の性格をも変えてしまった背景にある物語、そして「鬼の大松」と呼ばれるスパルタで「東洋の魔女」を組織した手腕が取り沙汰されたものです。

象徴的な事柄として大松監督著書の「俺についてこい」という本が出版されて映画化までされる程の盛り上がり振りです。筆者の旭川の実家には若き日の母親が当時購入したと思われる大松博文著書「なせば成る」が物置部屋の書棚に今も眠っています。

金メダルの後には必然的にバレーボール・ブームが巻き起こり「スポ根」(スポーツ根性もの)の一角を担う少女漫画がアニメ化されて「アタックNo.1」と同時に少女漫画を連続テレビドラマ化した「サインはV」が放送され双方ともに人気を博しました。「アタックNo.1」は顔の半分がパッチリお目々の鮎原こずえが主人公で声が魅力的で小鳩くるみ(鷲津 名都江)が声優で番組主題歌も歌っていました。最近でもテレビで再放送されていました。「サインはV」は実写で再現した必殺技(X攻撃)や登場人物が魅力的でした。主役は朝丘ユミ役の岡田可愛でしたが彼女を凌ぐほどに途中から登場したジュン・サンダース役の范文雀が記憶に焼き付いています。

この現象はバレーボールに限らず野球を中心にした他の競技でも「スポ根」ものが大量に出回りました。「なせば成る」、「スポ根」は当時の世相、風潮と連動しており「スパルタ教育」的な精神論の文脈としてあったように思います。このことは、当時の風潮や世相と異なりますが、最近視聴した「J・K・シモンズ」(J K Simmons) の好演が光る「セッション」"Whiplash" という「ジャズ」"Jazz" を題材にした映画をどうしても想起してしまいます。

そしてもう一つ決して忘れてはならないのが、男子マラソンの「円谷幸吉」(Kokichi Tsuburaya) 選手です。

東京五輪でマラソン選手として出場した円谷幸吉がアベベや君原健二達有力選手が後退する過酷な状況で四十二点一九五キロという長い道のりを経て最後のゴールを目指して国立競技場のトラックに二着で帰ってきた大歓声の場面、そこで厳しい父親の教えを守って後ろを振り返ることなく走り続けた円谷が追いかけてくる英国ヒートリー選手に気づかずに抜かれるドラマ、気を失いかけて朦朧としながらも最後に力を振り絞って三位でゴールしたドラマチックな姿は栄光に満ち満ちていたのでした。

その円谷は陸上競技に才能を見出だされて五輪選手強化のため設立された陸上体育学校に入り(陸上自衛隊に入隊し自衛官となる)長距離陸上選手として嘱望されるものの持病の腰痛のために茨の道を進む事を余儀なくされるのですが、そういった負い目を払拭する彼のひたむきさ真面目さが五輪で報われたのです。トラック選手でありマラソンの経験が少ないため期待されなかった彼が陸上競技で銅メダルを日本に齎したことで英雄と讃えられることになります。

ですが東京五輪の後には次のメキシコ五輪の活躍を過剰に期待されたがために、円谷を取り巻く環境に変化が起こり周囲の勝手な思惑とその圧力に追い潰されてしまう羽目に陥ります。円谷を理解し庇護する上官が排斥された上に、新しい上官が五輪に専念させるため私事である円谷の婚約までも破談に追い込んだそうなのです。仕舞いには持病の腰痛を抱えて練習も満足出来ずにいたストイックな円谷は抱え込んだ責任に押しつぶされてしまいました。自害したのです。そして円谷が遺した「遺書」が公開されて素朴で実直な文言が世間に衝撃を与えたのです。

筆者は後年になって映画で円谷幸吉の事を知りました。銅メダルを手に入れるまでの栄光が市川崑監督の「東京オリンピック」"Tokyo Olympiad" という記録映画でも観ることができます。そして記憶が定かではないのですが映画(もしくはテレビ)で円谷幸吉のドキュメンタリーとして描かれた円谷の苦悩と栄光と挫折を映像で垣間見た筈なのです。筆者の脳裏に記憶の引き出しに曖昧に保存されているのはモノクロ映像でした。映像には円谷が残した「遺書」の全文が画面に映し出されてどなたかのナレーションで朗読された様に記憶されています。

「父上様、母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。」

「遺書」の全文を読むと涙が止まらなくなってしまいます。
「美味しうございました。」と繰り返し綴り、誰を恨むことなく感謝の言葉を綴った純粋な文章に思わず引き込まれてしまうのです。
滔々と流れる短い文節を読み進めることで、記録映像でしか知ることができない円谷という人間とシンクロしてしまい彼の苦悩を思い遣ってしまうのです。
ひたむきなまでに禁欲的に期待の全てを一人で背負い込んだ円谷幸吉というアスリートが確かに居ました。
決して忘れてならない五輪という祭典の犠牲者です。

二〇二〇年に開催予定の東京オリンピックでは、厳しい選考を潜り抜けて五輪への参加認められた選手の方々は自らの努力が報われることを確認するために、そして支えてくれた方々への御礼を込めて参加すること、何より競技を通して研鑽を積んだことでの「自己を高める場」として祭典に参加して欲しいと思います。
もし、お披露目の場にて御自身が無様な姿を晒すとお考えになるような結果に甘んじたのだとしても悔いることは無いのです。各競技の代表として参加できるだけで偉業なのです。多くを背負込まず結果はあまり気にせずに思いっきり好きな様に為さってくださいませ。
元気に参加される事と悲劇が繰り返されない事、それだけを祈っています。
次の東京オリンピックではその立ち向かって行く勇姿を我々に垣間見せて頂ければそれで充分に満ち足ります。

『二〇一六年、リオ・オリンピック再び』

開催から間もなくして女子柔道で銅メダルを獲得したエピソードは報道が良くされているのでご存知かと思いますが、金メダル候補の日本選手が準決勝で敗れました。
彼女は唯一の目標であった「金メダル」がなくなった事で心が折れそうになったのだそうですが、試合終了後に対戦相手アルゼンチンのコーチから「メダルを取るのと取らないのとでは全然違う」と励まされたのだと報道されていました。近藤亜美選手は三位決定戦では折れかかった気持ちを立て直して見事に勝利を獲得したのです。勿論、彼女にとって結果として銅メダルを獲得したことは良かったと思いますが、それ以上に一度折れかけた気持ちを短い時間で立て直し最後となる試合に堂々と挑んだことを讃えるべきでしょう。
折れかけた心を立て直すのは尋常なことではないですが、短時間でその荒業を見事に成し遂げた彼女は成長を遂げたのであり素晴らしいと賞賛せざるを得ません。
真似できるのであれば是非とも真似したいものですが、筆者にそれは叶わないことでしょう。

更に賛辞を送るべきは対戦相手のコーチが気遣って他国の選手に声を掛けるというのは中々できることではないでしょう。コーチという役割は自分が見るべき選手が居るのですから、その狭まった視界を広げて対戦相手を気遣うのは難しい所作であることが容易に汲み取れます。
詳細は当人たちにしか知る由が無いのですが、試合が終われば相手選手も同じ競技を愛する仲間であり彼女を素晴らしい選手だと認めて頑張りなさいとエールを送る事だったのだと解釈もできます。思い遣る心を持っておりそれを行動に移せる懐の深さと徳の高さを知ることになりました。

彼女たちの行為は、選手とコーチという役割を超えて、自国と他国という国境も超えて、人と人が互いに存在を認め相対し目前に居る相手を思う心遣いなのだと知ることができます。垣根を超えるのに大事なのは、やはり「思いやり」でした。

『二〇〇七年、祭典の日』

「祭典の日」"Celebration Day" という題名は、英国ハードロックの始祖で絶対王者として君臨し今や伝説と化しているバンド「レッド・ツェッペリン」(Led Zeppelin) が1970年に発表したサードアルバム「レッド・ツェッペリン III」 "Led Zeppelin III" のA面三曲目のタイトルです。
アコースティックな楽曲が並ぶアルバムの中で曲頭イントロから不安を煽るようにまるでバンジョーを掻き鳴らすストロークの金属音とそれにスティールギターをスライドさせるかのような奏法で揺れる高音が絡まったメロディが全編に亘って流れるシンセサイザーを駆使した佳曲です。ギタリストでコンポーザーでもある「ジミー・ペイジ」(Jimmy Page) らしい楽曲でシングルカットもされました。

そしてこの楽曲から名付けられたアルバムが後年になってリリースされます。奇跡の一夜とも云われる(アトランティック・レコード創設者)トリビュート・コンサート (Ahmet Ertegun Tribute Concert) のために2007年12月10日にロンドンで再結成ライブを行ったのを収録したライブ盤のタイトルが「祭典の日」"Celebration Day" (2012年リリース)なのです。

一夜限りのライブではバンドの要「ボンゾ」(Bonzo) こと「ジョン・ボーナム」(John Bonham) が他界しているため、彼の息子である「ジェイソン・ボーナム」(Jason Bonham) がバンドに参加してオリジナルメンバーである「ジョン・ポール・ジョーンズ」(John Paul Jones)、「ジミー・ペイジ」(Jimmy Page)、「ロバート・プラント」(Robert Plant) たちと供に集っているのです。

このライブ(盤)で最初に演奏する楽曲は、ファーストアルバムのA面一曲目に収録されている「グッドタイムズ バッドタイムズ」"Good Times Bad Times" です。つまりこの楽曲は Led Zeppelin が最初に世界に向けてその存在を初めて誇示した楽曲とも言えるものであり、未開の地であったハードロックを開墾したのがこの楽曲であり歴史の一ページを刻んだとも言い得ましょう。
スタジオレコーディングされたLPレコードに針を落として最初の鳴り出す音が独特の「間」を空けた不思議なリフで始まるのが "Good Times Bad Times" という曲なのです。筆者はリリース時のリアルタイムで聴いたのでは無いのですが、原点回帰としての「クィーン」(Queen) から遡っていく際に、貪るようにお宝探しを続けていた往路にて友人宅にあったLPレコードで追体験したのですが、ここから「ハードロック」"Hard Rock" が始まったのだ、とはっきりと認識したのを鮮明に回顧できます。

この再結成ライブではオリジナルの音階からダウンチューニングしたかの様相を呈したオリジナル・キーから二音程度下げられた低音でしかも歪んで細かくざらついたエフェクトが加わった触感であの独特のギターリフが響き出しただけで痺れました。曲中で間欠の際に突如でてくる渋いベースラインも健在です。もう逢えないと思っていたツェッペリンが熟成されたバージョンで堪能できます。しかもこの "Good Times Bad Times" は過去のライブでは(イントロ以外は)ほとんど演奏されてなかったのでまさか再結成されたここで聴けると言う極みでその感慨もひとしおです。

「祭典の日」ライブで一等最初に演奏された「グッドタイムズ バッドタイムズ」"Good Times Bad Times" ですが、その曲名から勝手に汲み取って解釈したメッセージとして
「人生には良い時があれば、悪い時もあるよ」
と語りかけられているような気がします。
「そんなものですよね」
と頷いて、還暦を過ぎた人生の先輩方であるツェッペリンからの薀蓄を含んだメッセージを受け取りました。

その "Good Times Bad Times" の歌詞には、こんなフレーズがあります。
「その時のベストを尽くせば良いんだ。どうやるのかは問題じゃ無い。」

本気を出し切ったら、後は気楽に行きましょう。

次回もお楽しみに。

 


 

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