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第87回 カタルシス (藤江一博) 2019年5月

例えば目が覚めたら

「今までの事は、すべて夢だったんだ。」

そう思いたいことがあります。
すべては、ただの幻だったのだと。

誰しも既に起こってしまった過去の出来事は、
いくら悔やんでも後戻りは叶わないです。
タイムマシンがあればいいのに。

 
 
 

『asphyxia』:

遥か彼方の記憶ですが、中学校の文化祭で起きた忌まわしい経験を語ります。
その体躯を切り付けられる程に心に痛みを感じる仕打ちとなった原因すべては、自分の所為なのです。

中学三年生の少年は、文化祭で歌を歌いました。
全校生徒の前で体育館の檀上で唄いました。
どう考えても人前ではご披露出来ない品質の散々な体たらくで音程がメロディーラインに一切載っていない外れた歌声です。音痴の見本です。
檀上から降りる際には、うな垂れて誰の顔を見ないようにして転ばないように足元だけを見て走り去ったのだと思います。
記憶がないのです。
消え去りたいという気持ちは覚えています。
本当に透明になって誰にも見てほしくない、消え入りたいという強い痛みを胸の奥底で感じました。

まるで仮死状態になったかのようです。
どうやって家に帰ったのか覚えていません。
もう学校に行きたくない。
ただ、それだけが強い想いとしてあったと思います。
ぐしゃぐしゃに完璧に水平に平べったく押しつぶされた気持ちのまま、復讐のつもりなのか反省を反芻しているのか不明ですが、風呂場で何度も「順子」を歌っていたのを想い出しました。
もう一回やれば、今度は上手く出来ると思っていたのかもしれません。
そんな事を思い出しました。

 
 
 

『楽園の君』:

お披露目の結果は完全な惨敗だったのです。
ですが何故に人前(文化祭)に出たのかというと、当時人気があったテレビ歌番組「ザ・ベストテン」で「長渕剛」が「順子」を歌ったのを観たのです。
確か野外からの中継映像で長渕剛は生ギターを自分で弾き語りして歌い上げる様がカッコよくて食い入るようにテレビを観ました。
まだ中学生だった少年はロックの洗礼は受けておらず、身近な音楽と云えばテレビで流れる歌謡曲でした。
当時流行っていたフォークミュージックも少しは知っていて流行りものに感化されてフォークギターを買って貰いました。
ろくにチューニングも出来ず弾くことも出来ないですが、貧乏なのに無理を言ってギター買って貰いました。
確か「モーリス」"Morris" とかじゃなくて「モラレス」"Morales" の手ごろなアコースティックギターを買って貰ったと思います。

勿論、テレビが主たる情報源だったので流行歌しか知らなかったのですが、新しいフォークミュージックというか歌謡曲言うべきなのか迷うような範疇に入らない「順子」という楽曲をテレビ映像でリアルタイムで目撃することで新たな刺激を受けました。
時系列を辿るとその時代の前後に「ニューミュージック」というトレンドも流れていた様子でしたが、テレビっ子は、知る由もありませんでした。

 
 
 

『最終列車』:

学校にはその頃少女漫画から飛び出して来たまさに絵に描いた様なイカシタ転校生で三ノ宮くんがいました。
街はずれで高台の上にあって彼が転向してくるその前年に出来たばかりの春光台中学校に、お勉強が出来て運動もまずまず出来て何かと直ぐにカッコつける髪型がバッチリ決まった都会からやってきたイケメンの転校生が来たのが三ノ宮君です。
すぐに親友になりました。
三ノ宮くんは彼の友人の鎌田くんと連んで学校にギター持ってきては、放課後二人で練習していました。
彼らはギターがとても上手で二人でアルペジオを駆使した高度なテクニックでどこかで聞き覚えのあるフォークミュージックを披露してくれます。その際にテレビで見たあの「順子」を二人で弾いてくれました。
ギターをかき鳴らすだけしかできない少年は、そのテクニックに見入ってしまいました。
少年が弾くギターと云えばまるでアコースティックギターでスリーコードしか知らないまさにパンクロックだったのです(パンクロック自体の存在を知りませんでした)。
知っているコードを掻き鳴らすだけ少年にとっては、スリーフィンガーは魔法のような運指だったのです。

二人の演奏が終わると、聴き入っていた少年に「歌、唄ってみる?」と声を掛けてくれました。
二人はギター演奏がしたいだけで演奏が主体ですが、歌が必要らしく誰でも良いから唄って欲しかったのかもしれません。
想い返せばですが、誘いの言葉を掛けてくれたのは親切心ではなくて彼らの披露の場として、文化祭が迫っていたのでそれに出演するためだったと思います。
単純な少年は、その仲間に入りたくて軽い気持ちで「良いよ」と応えてしまいました。
すべての悪夢はここから始まりました。

 
 
 

『無能』:

感化されたお調子者の少年はひどくあがり症な癖に目立ちたがりという難癖を持っています。
そして「長渕剛」をテレビで見たイメージが焼き付いて、ギターが上手く引けない少年にも歌くらい唄えると思い込んでしまったのです。
三ノ宮くんに「順子」をカセットテープに録音して貰って家で聴くことにしました。
文化祭の数日前だったと思います。
ですから練習する時間は、ほとんどありませんでした。
そもそも感覚派の少年は努力することを全くしないのです。練習などする筈ありません。
一回聴けば、何とかなるだろうという論拠も意味もない訳の分からない自信があったかもしれません。
それに二人はギターの練習に余念はないものの唄は添え物でどうでも良いらしく、一緒に練習をしなかったのです。
少年にとっては、完全にぶっつけ本番です。

もう一つ、落とし穴がありました。
三ノ宮くんが録音してくれたカセットテープで課題曲である「順子」は何回か聴いたと思います。ですが、録音されたレコードの音は当たり前ですが、ギター伴奏だけでなくアレンジされていました。
勿論本番は、二人が奏でるギターの音だけ唄いますのでレコードで聴く伴奏とは全く違うことにその時は気づきませんでした。
編曲されて主旋律のサポートがあるレコードの音とは全く違う伴奏の所為だけではなく、少年は全く練習していなくてうろ覚えだったメロディーは、本番当日は形すらも残さず脆くも崩れ去りました。

それに本番では、檀上に上がった瞬間に全校生徒の刺すような視線を感じて一瞬で緊張が全身に走りガチガチになりました。
二人のギターが奏で始めイントロが始まると何処から唄い出せば良いのかが分かりません。
焦りながら適当に歌い出してみると、素っ頓狂な甲高い声が出てしまい乗っけから外しまくりです。
そのまま最後までずっと外しっぱなしです。

そしてその少年は何とか最後まで歌い終わると焦燥しきってしまいますが、近くに居るはずの二人の華麗なギター演奏の音を遠くで鳴っているのを聴きながら、無限に続くのかとすら思えた苦痛に満ちた時間の終焉の時を迎えます。

演奏が終わるや否や消えてしまいたいとそう願ったのです。

 
 
 

『あなたのなかの忘れた海』:

吐露したのは、長らく「倉庫」から無意識に削除されていたのです。
中学校三年生の文化祭の忌まわしい経験は、完全に無かったこととして最近まで忘れさっていました。

何かのタイミングで引き出しからその記憶を取り出してしまいまして、それは恐ろしく悍ましい(おぞましい)もので、とても実際にあったことだとは信じることができません。
遥か彼方の原始時代の出来事ですし、それに忘れ去っていたこともあって現実に起きたこととは思えません。
あれは「妄想だったんだ」と想い込みたいのです。

でも取り出してみるとそれはとても鮮明に言いようのない恥部を曝け出す感覚です。
ですから、無意識に自己防衛本能が記憶の倉庫の奥深くに仕舞い込んで無かったことにしたのだと推測されます。
ですが、ふとした拍子に回廊の先にある秘密の倉庫を開けてしまいました。
(以前のコラム「第8回 記憶の倉庫」を併せてご覧ください )

自戒として思い切ってそのサルベージした消し去りたい記憶をここに曝してみることにしました。
それは、「準備が大事」という当たり前の事を戒めるためです。

ライブでのパフォーマンスは、準備(練習)が八割なのです。
残りの二割が場を見て判断する(アドリブ)の部分になります。

何事も「準備」を怠ると、結末は分かり切ったものとなります。

 
 
 

『聖者たち』:

何の因果なのか人前で喋る仕事をしています。
緊張が過剰に供給されてしまうあがり症です。
正直、向いていません。
バイトでも厨房で調理をする裏方でしたし、ホールで接客するのは苦手です。
ですが、人前で喋るお仕事をしています。

講習会だけでなく同僚に説明をしている最中でも、自分が話している内容があっているか不安になることがあります。
そういった不安が生じた場合には、半分程度の確立で勘違いをしている場合があります。

それを回避するには、自分が話をしている内容が果たして本当にあっていることなのかと自問自答することが大事となってきます。
確認をするのです。
喋る行為と同時に発した言葉を自分で自分を疑うことをします。
慢心するとこれを怠ります。
嘘ばっかりお話することになります。
後で間違いだと分かっても後悔だけが残ります。
既に発した言葉は戻りません。

反対に疑いを持ち始めるとキリが無くなってしまい、全てが怪しくなってしまします。
自信を喪失していまします。
疑念が膨らむと何も話せなくなってしまいます。
無言です。

自分を律することは、難しいです。

自信を持ってお話するためには、自分の中で確信を持ち得るまでに準備するしかないのです。
間違いを指摘して貰うことも恐れてはいけません。
新しい知識を得ることになるのですから、喜んで受け入れたいです。
懐の深さと寛容さと素直が大事になるのでしょう。

 
 
 

『季節は次々死んでいく』:

以前、親と逸れた雀(スズメ)の雛の話を書きました(過去のコラム『第81回 僕は問題ありません』を併せてご参照下さい)。

実はその時、雀の雛を保護することに躊躇しました。

親と逸れた雛を勝手に移動させてしまうと二度と親と巡り合えなくなってしまうかもしれない、というのが理由です。
ですがもう一つ理由がありまして、それは以前にも同じように雀の雛を介抱しようとしたことがあったからです。

その雀の雛を見つけたのは、たぶん数年前に遡ります。
家の近所は土地柄でとても鳥が沢山います。
近くには野川が流れていまして鴨や鷺に加えて川蝉(カワセミ)を見ることもあります。
親と逸れて弱っていた雀の雛を見つけたのも家の近所でした。
その雛を家に連れ帰り滋養を与えると少しずつ元気になっていきました。
数日でみるみる回復してどうやら懐いてしまいました。
部屋で飛び回り出して肩の上にも停まります。
はやく外界に旅立って欲しいなと思っていました。
ですが、家の中を自由にしていたことが仇となりました。
ちょっとしたことで言い争いをしていて雀が居ることを忘れてしまった時でした。
雀が床に降りて口論している我々に近づいていることを知らずに、私は雀を踏んでしまったのです。
雛はぐったりとしてしまい、一晩苦しんだ後に天に召されてしまいました。
助けるつもりが、自ら殺してしまったのです。
意味もなく小さい命を奪ってしまいました。
いくら後悔しても後戻りは出来ません。
喧嘩さえしていなければ。
雀を籠に入れておけば。
でも、起こったことは後戻り出来ません。
時間は逆には回ってくれません。
かけがいのない「命」は取り戻せないです。

何が大事なのかをいつも見失ってしまいますが、大事ものは「命」です。
命だけが大事です。
それ以外の事は大抵何とかなります。
過去は変えることができませんが、未来なら変えることが出来ます。

 
 
 

季節は次々生き返る、そう信じたいです。

 
 
 

次回をお楽しみに。

 
 
 

 


 

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